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社会不適合者のブログ

20年目のKID A

 

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  来たる2020年は、Radioheadの4枚目のアルバム"KID A"のリリースから20周年の節目だ。そんな2020年を迎えて思うことが多少ある。

KID Aという徹底的に無機質なアルバム

 KID Aは衝撃的とも言えるほど無機質な電子音からスタートする。そして4曲目"How to Disappear Completely"に至るまでギターサウンドはほとんど聴こえず、前々作"The Bends"のバリバリのギターサウンド、そして筆舌に尽くし難いほどのエモーショナルな前作"OK Computer"のサウンドから”ロックバンド”であるRadioheadの世界に入ったこちらとしては(マイナスの意味での)ショックを受けざるをえなかった。

 

 また、傑作・OK Computerで見られたような詩的な歌詞も鳴りを潜め、"Everything in Its Right Place"では、いかにも神経症患者が発しそうな意味不明な単語の羅列がそれに取って代わった。ギターサウンドとボーカルというロックサウンドの主役は特権性を引き剥がされ、それらは電子音や打ち込みのビートサウンドと同等の、単なる"音”としての扱いを受けるかたちとなった。

「人間的」な20世紀と「無機質」な21世紀

 ある意味で、KID Aは来るべき21世紀を正確に予測していたと言えるだろう。そして、それに対比させるとするならば、前作OK Computerは「人間的」な情味溢れる「20世紀」的なアルバムと言えるだろう。20世紀的な「特権」=ギターサウンドとボーカルがその地位から引き摺り下ろされ、無秩序なサウンドが行き交うKID Aの世界は、まさに21世紀を象徴していると言える。

 

 21世紀にはエモーショナルな大戦争も大国同士の宇宙覇権を巡る競争も世界恐慌もないが、その代わりに無機質な商品が揺れ動く、20世紀的な尺度で言えば「不気味」な灰色の世界が広がっている。しかし、2002年生まれの純正21世紀人間の僕は、そんな「不気味」な世界をそこまで悲観していない。OK Computerが20世紀のヒューマニスティックなアルバムであるとしたら、KID Aは21世紀の「人間味」を提示しているのではないか。

「無機質」という「人間らしさ」

    僕は、都市が好きだ。コンクリートジャングルなどは本物のジャングル以上に美しいものだと思っている。それはなぜかというと、まさにそれらの無機質さの中に21世紀の「人間らしさ」が詰まっているからだ。よく、人間関係にがんじがらめにされた田舎者のコミュニティや、家族や隣人などの近しい者どうしの歯が浮くほど甘ったるい「愛情」(そんなものが今どれほど残っているだろう?)をこの世のユートピアかのように賞賛し、崇拝し、強制したがる自称ヒューマニストがいる。しかし、そのような20世紀的ものの復活など21世紀にとっては幻想だ。もちろん、今でも隣人愛(これはキリスト教的な意味とは少し違うが、僕はキリスト教的な人間愛も気持ちの悪いものだと思う)や家族愛で成り立っているコミュニティがあるならそれはそれで素晴らしいと思う。しかし、もはや20世紀的なコミュニティ像が崩壊したこの現代において、20世紀的な「愛」の幻想を抱きながら社会を云々する自称ヒューマニスト評論家には苛立ちしか覚えない。何より、彼らの提唱する幻想にほかならない「愛」に基づいた社会などは、そのコミュニティ弱者をより苦しめるだけだ。虐待やDVに苦しむ人々の前で、家事育児に忙殺されそうな母親の前で、「家族愛は強いんだから家族を大切にしなさい」なんて言えるだろうか。そんなものは独善である。

 

 21世紀の「人間らしさ」は家族愛だ隣人愛だなどの妄言に惑わされず、皆が無秩序に飛び回るものであってほしいと僕は願っている。それはもちろん灰色の無機質な世界観を伴うものであるが、それが「不気味」なら、僕に言わせれば20世紀的な気持ちの悪い「愛」にまみれたヒューマニスト気取り宗教家の世界観の方が「不気味」だ。とにかく、全てが交換可能な商品の氾濫する21世紀の社会における「人間的」とは、モノ(Mono/物)としての個人が自由に、エゴイスティックに人間関係の結合と分離を繰り返すような、「都会」的なものであってほしい。「愛」なんてのは一対一の人間関係の間に勝手に発生する一回性の論評不可能なもので、それを「家族愛」だの「隣人愛」だの名付けて凝固させようとする「優しい」人々にはヘドが出そうになってしまう。(ましてや婚姻関係を前提とした愛に関する言説なんて最悪だ。なぜなら、アドルノの言ったように、婚姻というものは、一回性のはずの愛を所有しようという企てであり、愛の最も疎外された形態だからだ。)

 

 話を戻せば、KID Aは、そんな全てが商品として交換可能な21世紀を生きる人間のために、21世紀の「人間らしい」サウンドを提示してくれている。

 

 僕の生まれた年に発表された村上春樹の小説『海辺のカフカ』のなかで、主人公の15歳の少年田村カフカがKID Aを聴いていたのは偶然ではない。海辺のカフカの、全てが交換可能な世界観(作中に過剰とも言えるほど出てくる固有名詞 --- ウォークマンやローソン、吉野家ジョニーウォーカーなどの「商品」も、物語の主な舞台となる高松市も、作中では全く特権的な地位を得ていない。ウォークマンiPodであっても、高松市名古屋市であっても物語自体に全くと言っていいほど大きな影響を与えないはずだ)のなかで、父親を殺し、母親とセックスをするカフカ少年が聴くのはOK ComputerではなくKID Aである必要があるのだ。

20年目のKID A

 そして、まもなく2020年を迎える。KID Aがもたらした斬新すぎるエレクトロニクスサウンドは確実にロックの歴史を変えたし、その後のミュージシャンに多大な影響を与えた。21世紀の「人間らしさ」はどうだろうか。最近になってもまだ「家族」の崩壊や隣人関係の希薄化を今生の悲劇のように語る言説をちらほら見かける。また、非正規雇用の増加に象徴される、労働者の「交換可能化」を、左派知識人(彼らの中には「ヒューマニスティック」な御方も多いはずだ)や労働組合(彼らこそ20世紀的な「特権」であり、今引き摺り下ろそうとされている)の方々がたいそう嘆いている姿もよく見かける。しかし、それほど悲観的にならずとも、"Optimistic"(KID Aの6曲目)に身構えていた方がいいのでは?